黒糖作りのはじまり
南蛮貿易により、砂糖と砂糖菓子が大量に輸入されるようになった日本で、ついに砂糖の製造が黎明を告げます。その先駆けとなったのは、琉球(沖縄県)で始まった黒糖作りでした。
江戸幕府が開府して20年の1623年、琉球の儀間真常(ぎましんじょう)が中国に使者を出し、砂糖の製造方法を学ばせます。その技術を琉球に持ち帰り、黒糖の製造に成功すると、製糖業は琉球の財政を支える重要な産業になりました。その後、黒糖の製造は奄美大島や喜界島、徳之島といった周辺の島々にも広がり、これらの地域を管轄する薩摩藩に莫大な収益をもたらしたといわれています。
出費のかさむ輸入品「出島砂糖」
日本本土では、1639年に始まった鎖国により貿易の窓口が長崎・出島に限られ、台湾やカンボジアなど各国から集められた白砂糖、黒糖、氷砂糖が、中国船やオランダ船によって大量に運ばれてきました。出島に陸揚げされた砂糖は「出島砂糖」と呼ばれ、当時の中央市場だった大阪の問屋を経由し江戸や全国各地に出荷されました。
1712年に発行された『和漢三才図会』という百科事典には、白砂糖250万斤(1斤=600g、1,500トン)、黒砂糖80万斤(480トン)、氷砂糖20万斤(120トン)もの砂糖を輸入したと記述があり、この頃には砂糖、特に白砂糖の需要が高まっていたことが窺えます。 日本では、砂糖は元々薬として扱われていたこともあり、当時非常に高値であったため、砂糖の対価として流出する金、銀、銅も増す一方でした。
白砂糖、国産化へ
砂糖の需要の高まりに伴う支出の膨らみは徐々に深刻化し、こうした状況を憂いた幕府の要職の新井白石や農学者の宮崎安貞などが砂糖の国産化を助言し始めます。
そして1715年、幕府は「長崎新令」によって砂糖の輸入制限を行うとともに、砂糖の国産化を奨励するにいたります。
では実際に国産砂糖が完成するまでに、どんな人たちが奔走したのでしょうか。また次回、ご紹介いたします。
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