伝統的な和菓子を代表する「羊羹」。じつはもともとは中国の料理でした。それが日本でさまざまな進化が起こり、かの夏目漱石が「一個の美術品だ。」とまで称えた和菓子になりました。今回はその進化の過程をさぐります。
代表的な種類として「練羊羹」や「蒸し羊羹」、「水羊羹」などがあります。
一般的に羊羹と言えば「練羊羹」のことを指すことが多く、あずき餡などの餡に砂糖と寒天を加えて、練って作られる和菓子です。
「蒸し羊羹」は室町時代からあったと考えられている日本の羊羹の元祖で、あずき餡、小麦粉、葛粉を材料に蒸して作られます。
「水羊羹」は練羊羹の一種で、水分が多めで柔らかいものです。
現在の羊羹のもととなったものは鎌倉時代から室町時代にかけて、中国へ留学した禅僧の帰国とともに日本に入ってきた点心、つまり軽食の一つでした。
羊羹の字に「羊(ひつじ)」が使われているように、もともとは羊肉を使った料理でしたが、小豆を使った甘い菓子に変化します。
それではその変化の過程をみていきましょう。
羊羹の原料が羊肉から小豆になったのは禅僧が肉食を避けることに加え、昔から人々が小豆に特別な価値を置いていたことが関係しています。
小豆は赤い色をしていますが、赤色は古くから太陽の力、血液の力が宿り、生命力を象徴して魔よけや災いを避ける力がある色とされているのです。
そのため、赤色をしている小豆は神聖な食材とされていました。
そのような理由から禅僧が食べる間食として、あずき餡の羊羹が広まったと考えられています。
羊羹があずき餡で作られるようになった後も、しばらくの間は菓子ではなく料理としての羊羹でした。作り方の詳細は不明ですが、現在の蒸し羊羹と同じように小豆に小麦粉、葛粉を加え、蒸して固めていたと考えられています。
しだいに甘い羊羹も作られ、室町時代には菓子としての羊羹が茶席で登場していて、その頃は料理と菓子の両方の羊羹があったことが分かっています。
この後、料理としての羊羹が文献上見られるのは安土桃山時代までで、江戸時代には見られなくなります。
平安時代以降、貴重な薬として扱われてきた輸入品の砂糖が、室町時代ごろから上流階級でお菓子にも使われだします。
『庭訓往来(ていきんおうらい、1394~1428年頃成立)』という書物に「砂糖羊羹」という記述がみられるほか、第8代将軍足利義政が禅宗の僧に砂糖羊羹をふるまったという記述もあります。
その頃はまだ、砂糖はほんの一握りの上流階級が口にすることができるものでした。
そんな砂糖を使っていたことから、羊羹は当時、非常に高級な菓子になっていたことがうかがえます。
江戸時代に画期的な進化が起こります。
小豆、小麦粉、砂糖、葛粉を混ぜて蒸してつくる「蒸し羊羹」から、あずき餡に砂糖と溶かした寒天を混ぜて、練ってつくる「練羊羹」への進化です。
蒸して固めるのではなく、寒天の凝固性により固めることで、口当たりが別物のようになめらかになりました。
蒸し羊羹の食感を「もっちり」と言うなら、練羊羹は寒天によって、「かためで、しっとりなめらか」な食感と言えるのではないでしょうか。
江戸時代は庶民の生活が比較的安定し、また砂糖が国内で作れるようになり普及したこともあって、庶民も菓子を日常的に食べられるようになります。
菓子全体の消費量が増えたことで、さまざまな和菓子が競って作られ、江戸時代は和菓子の一大発展期だったのですが、羊羹も練羊羹への進化で非常に人気の和菓子になりました。
その後もいろいろな種類の羊羹が作られますが、寒天を使用した「練羊羹」への進化が、羊羹を和菓子の代表に押し上げ、夏目漱石に小説の主人公の口から「一個の美術品だ。」(『草枕』)とまで言わせたと言っても過言ではないでしょう。
今回は「羊羹」をご紹介しました。
練羊羹にも、蒸し羊羹にもいろいろな種類がありますので、今度ぜひ、苦い日本茶と甘い羊羹で和の心を感じてみてはいかがでしょうか。
また、練羊羹は砂糖の保水性により防腐性も高い食品です。非常時には甘い食べ物がストレスを緩和させてくれますので、非常食として羊羹を備えるのもおすすめです。
【参考文献・資料】
・『和菓子の歴史』青木直美 著(ちくま学芸文庫)
・『辞典 和菓子の世界』中山圭子 著(岩波書店)
・『ようかん』虎屋文庫(新潮社)
・『草枕』夏目漱石 著(岩波文庫)
【関連記事】