お彼岸によく食べられている「おはぎ」。
お彼岸とおはぎの関係や庶民の間での甘い贈り物としての歴史、「ぼた餅」とは違うもの?
今回は「おはぎ」をご紹介します。
おはぎは、もち米とうるち米を混ぜて炊いたものを、お餅のように完全に粒をつぶして搗(つ)ききらずに、半搗きといわれる粒を少し残した状態まで搗いて丸め、周りをあずき餡やきな粉、ゴマなどでくるんだものです。
食べたときに周りのあずき餡などの甘さや香りと、やわらかい歯ごたえの中にお米の粒感とお餅のような粘りとが感じられる、昔からの庶民的な和菓子です。
おはぎが食べられだした時期は、はっきりとは分かっていませんが、『宇治拾遺物語(1221年頃)』や『徒然草(1331年頃)』に「かいもちひ」の名称で出ている食べ物がおはぎの元ではないかといわれています。
ただし、当時は鎌倉時代ですから、もしそれが「おはぎ」だったとしても砂糖は非常に貴重だったため、使われていなかったと思われます。
餡には塩餡(塩味のあずき餡)などが使われていたと考えられています。
砂糖自体は奈良時代、唐より日本にもたらされていましたが、長い間、貴重な薬として使われていて、鎌倉時代の後の室町時代になって高級なお菓子に使われるようになっていきました。
(詳しくは過去のコラム「砂糖の歴史 日本編①砂糖が日本にやってきた!(奈良時代~)」、「 同②砂糖と菓子の出会い(室町時代)」もご参考に)
赤色には古くから太陽の力、血液の力が宿り、生命力を象徴して魔よけや災いを避ける力がある色とされていました。
そのため、お赤飯(※)のように赤色のあずきから作られる「おはぎ」が、ご先祖様を供養するお彼岸や四十九日のお供えに捧げられるようになったようです。
※ お赤飯には「あずき」ではなく加熱した際に煮崩れしにくい、同じマメ科ササゲ属の「ささげ」が使われることもあります。
江戸時代になって砂糖が国内で多く生産されるようになると、おはぎの材料は一般庶民でも比較的に手に入れやすい食材だったこともあり、家庭でも作られていました。
そして、家庭で作ったおはぎをお彼岸の時に近隣などで贈りあっていたことが、江戸時代後期の風俗誌『守貞謾稿(もりさだまんこう、1853年)』にも記載されています。
織田信長がポルトガルの宣教師から金平糖を贈られたように、昔から甘いお菓子は、贈る人と贈られる人の関係を近づける重要な役割をもっていました。おはぎにも近隣の人との関係をよくする、そんな役割があったのです。
家庭では比較的安価な黒砂糖を使っていたようですが、江戸の町には白砂糖を使った、おはぎの有名店もあって繁盛していました。
江戸時代後期は砂糖の国産化にともなって庶民的な和菓子が発展し、その有名店ではすでに現代と同じようにあずき餡、きな粉、ゴマの三種類のおはぎが売られていました。
庶民の中に日常的に和菓子を買って食べる生活が確立されていたと思われます。
(白砂糖の国産化は、かの8代将軍徳川吉宗が関係しています。詳しくは過去のコラム「砂糖の歴史 日本編④ 国産白砂糖ができた!(江戸時代)」もご参考に)
一般的に同じものを指します。
呼ばれ方で記録に残っているものとしては、江戸時代に書かれた庶民の食品の百科事典的な書物『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん、1697年)』に「ぼた餅」として記載がありますので、江戸時代には「ぼた餅」と呼ばれることが多かったようです。
2つの名前がある理由は、春のお彼岸の頃に咲く牡丹の花にかけて春に食べるおはぎのことを「ぼた餅」といい、同じものが秋のお彼岸のときには、秋の花の萩にかけて「おはぎ」になる、という説があります。
また、「ぼた餅」は見た目がぼてっとしているところからそう呼ばれ、「おはぎ」は宮中に奉仕する女性たちが使っていた「女房詞」での呼び方で、ぼた餅を上品に表現するため、萩の花にかけて言われるようになった、などの説もあります。
そして現在でも、もち米が多くてぼってり、もっちりしているものを「ぼた餅」と呼び、うるち米が多くてさっぱりしたものを「おはぎ」と呼ぶこともあります。
名前が持つ響きは重要で、2つは違う食べ物のように感じられますが、現在は一般的には同じものを指しています。
今回はお彼岸に食べられることの多い和菓子「おはぎ」をご紹介しました。
おはぎのあずき餡にも使われる砂糖には甘さだけでなく食品の腐敗を遅らせる作用もあります。詳しくは過去のコラム「なぜジャムは長もちする? 砂糖の防腐性」をみてくださいね。食品中の自由水を減らす作用を説明しています。
【参考文献・資料】
・『和菓子の歴史』青木直己著(ちくま学芸文庫)
・『たべもの史話』鈴木晋一著(平凡社)
・『辞典 和菓子の世界』中山圭子著(岩波書店)
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