昭和のはじめ、砂糖は国内で9割ほどが自給できるようになっていましたが、第二次世界大戦により、多くの生産設備とサトウキビの一大栽培地だった台湾の領有権を失い、日本国内から砂糖がほとんどなくなりました。今回はそこから復興のお話です。
昭和12年(1937年)に始まった日中戦争から昭和20年(1945年)の終戦までの8年間の戦争は日本にも周辺国にも多大な傷痕をのこしました。
戦争が終わったことで日本においての生活は、一夜で10万人もの人が亡くなった東京大空襲のような空襲からの恐怖はなくなりましたが、食糧、生活用品は不足し、都市部では住むところにも苦労して、とても苦しいものになっていました。
なかでも深刻だったのは長く続いた食糧難でした。戦時中から行われていた配給制度は戦後も継続されていましたが、都市部では遅配や欠配がたびたび起こり、餓死者も出たほどの状況でした。
そこから戦後復興がはじまります。
GHQの管理下、政府は国民に食料を供給しようとさまざまな手を打ちます。
主食のお米においては、終戦の年から翌年にかけて、地主制の解体という一大農地改革を法制化します。年月はかかりましたが、小作農から自作農になったことによる生産意欲の高まりもあり、全体として生産量が戦前に比べて大幅に増えていきました。
それでは砂糖ではどのようなことが行われたのでしょうか。
基本の食料が充足するにつれ、甘い物への需要も非常に高まります。実際、ヤミ市での砂糖の価格は統制価格の500倍だったとの資料もあるほどです。
砂糖への需要は非常に高かったのですが、生産にあたり一番の問題は原料でした。戦前、原料のサトウキビのほとんどを栽培していた台湾の領有権を戦争で失い、国内の原料では需要には足らず、輸入が必要でした。
しかし、輸入したくても支払いのための外貨が日本全体として十分ではなく、さまざまな輸入品目に対して外貨は計画的に割り振られていました。
砂糖の原料の原料糖(※)に関しては、輸入申請に対して各精糖会社の工場の生産能力に応じて外貨が割り振られたのでした。そのため各社は競って設備投資を行い、生産能力を増やします。
(※ 原料糖につきましては過去のコラム「「お砂糖」の作り方」もご参考に)
作ればどんどん売れる状況で、設備が他社より良ければ原料が多く買えて、たくさん作れて販売できる。そんな状況を政府が作り出し、製糖産業は急速に復活し国民に砂糖が供給されるようになっていったのでした。
砂糖の需要は、昭和25年(1950年)に40万トンだったものが、各社の生産能力の増加にともない、配給制度が昭和27年(1952年)に解除されてお菓子メーカーなどの製造販売も本格化すると、翌年の昭和28年(1953年)には100万トンを超えるまでになっていました。
当時、セメント、肥料とならび「三白景気」と呼ばれるほどの好景気を引っ張る産業として砂糖はもてはやされていました。
しかしそんな時期も長くは続きません。またもや原料に関連する制度によって変化が起こります。
そちらは次回ご紹介いたします。
【参考文献・資料】
・『食と農の戦後史』岸康彦 著(日本経済新聞社)
・『砂糖の歴史 4 精糖工業会』(農畜産業振興機構HP)
・『戦後復興までの道のり』(昭和館HP)
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