明治から昭和と進むなかで、台湾での製糖事業の開始や北海道でのテンサイの栽培、そして近代的な製糖工場の建設などにより、砂糖の生産が大幅に増え、それに伴い消費量も増えていきました。そこに戦争が忍び寄ります。
昭和に入り、時代が太平洋戦争に向かうようになると、砂糖を取り巻く状況は一変します。
第一次世界大戦後に訪れたアメリカの好景気は、その後1930年頃からの世界的な大恐慌を招くきっかけとなりました。
不況下での価格競争を避け国内産業を保護するため、日本では1931年に紡績業や製紙業など主要な産業を対象に、カルテルを認める「重要産業統制法」が施行されます。
この法律は製糖産業にも適用され、安定的な生産が行われていましたが、日中戦争下の1939年、神戸で砂糖不足によるパニック騒動が起こります。
これを契機に砂糖は一人当たりの購入量が制限される切符制の販売方式がとられます。そして翌1940年には政府が「砂糖配給統制規則」を施行、米など他の食品に先駆けて砂糖は完全に統制下におかれ、配給品となりました。
第二次世界大戦が本格化すると、石炭や電力が不足し国内の精製糖工場は次々に閉鎖されました。台湾からの原料糖の輸送も途絶えたたため、砂糖不足は深刻化。
1944年には加工食品向けの砂糖の配給停止に続き、家庭への配給も乳幼児や病気の人々に少量配給される他は停止されました。
戦前、ピーク時には一人当たり16kg/年だった砂糖消費量が、終戦の年、1945年には0.6kg/年にまで落ち込み、食べ物に砂糖がほとんど使われていなかったことが分かります。
戦後も原料糖の一大産地だった台湾の領有権の放棄や原料糖の輸入のための外貨不足などで砂糖不足はつづきました。
しかし砂糖の需要は高まるばかりで、ヤミ市で高値で売られることもあったようです。甘味を求める人々の救いとなったのが、「ズルチン」「サッカリン」などの人工甘味料でしたが、これらも法外な値段がついたといわれています。
これらの人工甘味料の一部はその後、安全性の面から使用禁止にいたりました。
こうして戦争により、砂糖は昭和時代のひととき日本の食卓からほとんど消えました。
この後、戦後復興の中で沖縄・鹿児島のサトウキビと北海道のテンサイ、輸入の原料糖、そしてそれらを精製して砂糖に作り上げる、新しい製糖産業が形作られ、砂糖が食卓に復活します。
それらは次回、ご紹介いたします。
【参考文献・資料】
・『世界の砂糖伝播の歴史』(精糖工業会)
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