開国によって、江戸時代に苦労して増やした国産砂糖は一気に駆逐され、砂糖はすっかり輸入に頼るようになっていました。しかし、そこから明治時代の国をあげての殖産興業により、砂糖を取りまく情勢も大きく変わります。
明治時代は、日本の近代的な砂糖作り、製糖の創成期でもありました。
日本では、砂糖はそれまで暖かい地方で栽培されるサトウキビから作られていましたが、明治になり外国を知るようになって変わります。
1880年、北海道の紋別に官営の製糖工場が設立されます。この工場は、当時の松方正義内相がヨーロッパ視察でテンサイ(※1)から多くの砂糖が作られているのを知り、創業したものでした。
残念ながらこのときは、凶作などで製糖の実績は大きくないままに一度断絶を迎えますが、その後の北海道の農業や産業においてテンサイによる製糖は大きな意義がありました。
北海道でのテンサイからの砂糖生産は、幾度かの失敗の後、昭和に入って軌道にのります。その結果、北海道でのテンサイからの砂糖生産は、現在、国産サトウキビからの砂糖生産に比べ、じつに4倍にもなっています。
また、原料のテンサイは農家にとって、同じ農地でジャガイモ、小麦、テンサイ、豆と年ごとに変えて栽培し、連作障害を防ぐ「輪作」の中の一作物として重要な地位を占めています。
(※1 テンサイにつきましては過去のコラム「テンサイってどんな植物?」もご参考に)
一方、サトウキビからの製糖はというと、サトウキビの栽培に向く土地が限られた日本では、製糖工場を設立しても原料の面から価格で外国産にかなわず、明治時代初期の国内糖業は苦難の時期でした。
この苦難の時期から脱するきっかけになったのが、1895年に終結した日清戦争です。
この戦争に勝利した日本は台湾を領有しますが、新渡戸稲造による「糖業改良意見書」に基づき、現地に多くの製糖会社が設立されました。
1900年の台湾製糖を皮切りに、塩水港製糖など製糖工場が次々と創業。日露戦争後の好景気も後押しし、台湾は世界的な糖業地として知られるようになります。
台湾の工場で作られる砂糖は主に、サトウキビの搾り汁を簡易的に製糖して糖分を固形化した原料糖(※2)で、消費地近くの精製糖工場へ運ばれるものでした。そのため、時を同じくして、日本国内でも近代的な精製糖工場が稼働し始めます。
(※2 原料糖につきましては過去のコラム「「お砂糖」の作り方」もご参考に)
日清戦争終結と同じ1895年に東京で設立された日本精製糖株式会社に続き、神奈川の横濱製糖、神戸の湯浅製糖所、福岡県門司の大里製糖所など、近代的で大規模な製糖工場がこの時期に次々と創業していったのでした。
(現代の製糖工場(関西製糖株式会社))
こうして日本の砂糖生産体制は整備され、明治35年の1902年には3万トンだった生産量は、1909年には27万トン、昭和4年の1929年には79万トンと飛躍的に伸びていきました。
【参考文献・資料】
農畜産業振興機構(HP) 「砂糖の歴史 4 明治以降の砂糖産業」
北海道庁(HP)「てん菜栽培の歴史」
「砂糖の文化誌 -日本人と砂糖-」伊藤汎監修(八坂書房)
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