8代将軍徳川吉宗がすすめた砂糖の国産化奨励策によって、江戸時代後期の1800年代になると、砂糖は輸入品から純国産へと置きかわっていっていました。しかし、かの有名な「黒船来航」がその流れに大きな変化をもたらします。
1854年、浦賀を訪れたペリーにより「日米和親条約」が調印され、下田と函館が開港、200年以上にわたる日本の鎖国に終止符が打たれます。
このときにはまだ自由貿易は認められていませんでしたが、その4年後の1858年に結ばれた「日米修好通商条約」によって横浜や神戸など4つの港が開港されたほか、自由貿易や、輸入品の関税自主権の放棄などが定められました。
この条約締結は、国産砂糖の運命を変えるものでした。
イギリスなど諸外国は、この関税自主権の放棄を商機とし、大量に砂糖の売り込みをかけてきます。
攻勢を強める輸入砂糖の中でも特筆すべきはイギリスの東洋貿易の中心的存在だったジャーディン・マジソン商会が香港に設立した「中華火車糖局」の砂糖です。
ここの製糖工場には現在の日本の工場でも使われている技術の、真空結晶罐と遠心分離機が使われていて、品質が高くコストは低い砂糖の大量生産を実現したのでした。
当時の日本の砂糖作りは和三盆糖をはじめ手作業が多く、また原料のサトウキビも江戸時代に本州南岸や四国、九州に苦労して広めましたが、年間を通じて暖かい東南アジアに比べると生育や収穫量で劣っていました。
(和三盆糖の作り方は以前のコラム『和三盆糖 ~職人が作り出す伝統砂糖~』もご参考に)
国内の製糖業は大幅に縮小して、またもや砂糖は多くを輸入に頼る状況となっていきます。
また、価格が下がったことで砂糖の消費量も増え、さらに輸入量は増えていきました。
江戸時代中期と同様に砂糖の輸入によって、国外に大量のお金が出ていく状況に戻ってしまいます。
1898年には、砂糖の輸入額は国全体の総輸入額の1割を占めるまでになっていました。
このようにして、この時代は江戸中期から増えていた国産砂糖が開国により一気に減り、再びほとんどを輸入に頼るようになった時代でした。
さて、この後、明治政府が進めていた富国強兵により、またもや砂糖に大きな変化が起こります。次回以降は日清戦争から太平洋戦争へと続く激動の情勢下での砂糖をお伝えいたします。
【参考文献・資料】
「砂糖の文化誌 -日本人と砂糖-」伊藤汎監修(八坂書房)
「砂糖の歴史 4」 精糖工業会(HP)
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