輸入砂糖の増加と国産砂糖の普及により、砂糖は江戸の町にどのように広まったのでしょうか。
「砂糖の歴史②」のコラムでご紹介しましたように、室町時代には禅宗の影響を受けて「砂糖羊羹」や「砂糖饅頭」などが登場しました。とはいえ江戸時代初め頃までは、とくに白砂糖は非常に高価なものであり、茶道とともに発展した菓子も上流階級のみが楽しむものでした。
たとえば、和菓子の代表的な食材の一つに餡がありますが、砂糖饅頭がでてきたのちも、江戸時代の初期までは餡というと甘くない味噌味や塩味が中心でした。
この状況に変化が起こるきっかけが、1657年明暦の大火と呼ばれる江戸の大火事でした。江戸の街の大半を焼いたというこの火事により、各地から修復のために大勢の職人や商人が江戸に集まりました。そして、彼らの胃袋を支える「煮売屋」と呼ばれる庶民のための食堂が多数現れます。
この時から食のバリエーションも豊富になったと言われています。そして、比較的手に入りやすかった黒砂糖を使用し、甘みのある味付けも増えていきました。
菓子にも徐々に砂糖が使われるようになり、少しずつ甘い菓子が広まっていきます。1718年に日本初の菓子の製法書『古今名物御前菓子秘伝抄』が発行されましたが、紹介されている全105種の菓子のうち約半数は砂糖を使ったものでした。
京菓子から江戸独自の菓子作りへ
茶の湯とともに発展した、下がり菓子と呼ばれる京菓子の影響が大きかった江戸で、独自の菓子が創案されるようになったのもこの時期です。そしてそれは砂糖国産化を目指し幕府による製糖奨励策が旗振られ、砂糖を取り巻く状況の変化のさなかでもありました。
製糖奨励策により東海から九州の各地でサトウキビが植えられ、白砂糖の生産が増え流通していきます。しかも讃岐の「和三盆」に代表される質の良い砂糖が各地で生産され、輸入白砂糖に比べ安価に国産白砂糖が出回るようになりました。
白砂糖は黒砂糖に比べ、菓子の色や素材の香りにも影響が少なく、味の向上のため重宝されたのです。そのような白砂糖を使い江戸時代後期には練羊羹や桜餅、大福餅など江戸発祥の和菓子が作られ、庶民の中に広まっていきました。
国産の白砂糖が生産できるようになったことで、現代に比べればまだまだ貴重品でしたが、江戸時代後期から庶民の間でも甘い和菓子が食べられるようになったのでした。
【参考文献】
「砂糖の文化誌 -日本人と砂糖-」伊藤汎監修 八坂書房
「和菓子の歴史」青木直己著 ちくま学芸文庫
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